独り言は大声で。

完全不定期で、受験の話をしたり旅行の話をしたりしていきます。たまに覗きにくるといいことあるかも。

受験は個人戦

 学校の先生というのは「高校0年生」などとそれっぽい標語を作るのが実にうまくて羨ましく思ったりしなくもないのですが、その中の「受験は団体戦」という標語にだけは異議を唱えるべきだと思っています。今日はそんなお話です。

 「受験は団体戦」という言説はただ単にダラしないだけ

 おそらく先生たちは「みんなで受験を戦い抜こう!」というような、先生にありがちな発想でこの標語を作ってみたのだろうと思うのですが、まずそこから間違っていると思います。受験というのはそもそも独立の事象なのであって、仲間がいたからどうこうなるものではありません。試験会場では当然一人で勝負するしかないのであって、また準備の段階でも自分の勉強を他人がしてくれるなどということはあり得ないのですから、そこに「仲間」なる存在が介在する余地はないわけです。自分が勉強したから受かる、勉強しなかったから落ちる、というのが当然であって「〇〇くんのおかげで合格した」などということはあり得ません。

 あえてこの標語を好意的に評価するなら、「励まし合って受験勉強」ということになるのだと思います。ただ、これについても僕はダラシない話だと思っていて、他人から励まされないと勉強できないという時点ですでに負けが決定しているようなものです。受験勉強というのはやる気があるからやるとかやる気がないからやらないとかそういう性質のものではなくて、決まった枠内のことをどのレベルまで高めるかの作業だと思っているので、その過程に「友人と切磋琢磨」などというものが入る余地はないと思っています。「友達が勉強しているから僕も勉強する」というのはそもそも動機付けが完全に間違っています。

 光栄ある孤立

 みんなで寄り集まって、悪かった模試の傷を舐め合って、勉強不足を自慢して慰め合う(「大丈夫だよ!俺もっと勉強してないもん!」という衝撃発言を聞いたことがあります)、というような団体なら高校でも東進でもよく目にしましたが、その珍妙な団体に所属していた人でいい結果に恵まれた人というのは聞いたことがありません。逆に、いい結果に恵まれていたのは「光栄ある孤立」というか、一人で黙々と勉強していた人のように思います。中学受験でも、周りと距離をおいてやるべきことを淡々とこなした子が結果を出していました。「わたしもできないよ〜、だから大丈夫〜、みんなで仲良く頑張ろ〜」というような子は本当に望んだ結果にはなっていないですね。

受験は個人戦

 僕は生徒に「他人は他人、自分は自分で独立してるんだから他人のことはほっといて自分でベストを尽くせ。受験は個人戦。」と言っていますが、これからもそう言い続けるつもりです。お互いの傷を舐め合って、見たくないものを見ないでいれば楽ですが、それじゃあ成果は出ないんだよ、ということは中学でも高校でも大学でも、全ての受験生に言えることだと思っています。