独り言は大声で。

完全不定期で、受験の話をしたり旅行の話をしたりしていきます。たまに覗きにくるといいことあるかも。

220205 中学受験を振り返る。

 いい加減旅行記を執筆せねばと思っている(思っているだけです)のですが、せっかく入試期間にこの記事を執筆しているので自分の入試を回想してみることにします。ぼくが中学受験したのは安土桃山時代の話で、その年は関西地方の入試が本能寺の変に伴い中止になっていましたが、江戸の方は(あれ、この時代には江戸とは言わないのかな?)平和なもので通常通りに入試が行われていました。自分で書いていて思いましたがなんですかねこの茶番は。大学受験はちょうど戊辰戦争の頃で、やはり入試が中止になっているところがあったと記憶しています。

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母校に車で行ってみました。

 などと無駄話をしていると読者(いるのか)が離れていく可能性があるので本題(あるのか)に戻ります。ぼくの中学入試の話でしたね。本題に入る前に、ぼくの入試結果を書いておきます。今更隠すことでもないでしょう。

  1月 土佐塾 ○

2/1 AM:麻布  ×

2/2 AM:攻玉社 ×

2/2 PM:都市大等々力 ○(A特待)

2/3 AM:浅野  ×

2/4 AM:芝   ◎

 いかがでしょうか。なかなか激しい受験ですね。自分が受験していた時には「芝受かって良かったなー」くらいしか思いませんでしたが、講師になってみるとこれがいかにとんでもない受験だったか理解できました。当時お世話になった先生方はさぞかし心配していたと思います。一応滑り止まっているので「あとは楽しんでこい!」という感じだったとは思いますが、「Sコースの生徒が都市大等々力に行きました」というのは講師としては受け入れがたい結果なので気が気ではなかったでしょう。

1月受験

 さて、ここからは時系列で振り返っていきたいと思います。1月のお試し受験は土佐塾でした。確か早稲田大学で試験を受けたと思いますが、「土佐塾中学校 入試問題」と書いてある横の漢字の書き取りが「じゅくに通う」だったことしか覚えていません。「トラップかな?」と思いながら「塾」と書いたら合っていたようです。余裕で合格でした。落ちる人はほぼいなかったと思います。倍率が1.1倍とかでした。

2月1日

 受験生が入試の前に小学校を休むというのはよくある話ですが、ぼくも小学校に行きたくない一心で休むことにしました。確か1月中旬にあった都内見学までは登校していたはずです。進学先が東京のど真ん中だったので今考えるとこれに行った意味はなかったのですがそれは結果論ですね。しかし、サボり魔のぼくが小学校を休んだからといって真面目に勉強するわけがなく、大変のんびりと受験前を過ごしていました。

 そんなこんなで麻布の試験当日を迎えました。広尾で降りて、学校に向かって歩いていく途中でカメラにピースしたらそれが放送されていたらしいです。あまり緊張することもなく、「あれ?今日はできるぞ?」と思いながら問題を解き、校庭で昼ごはんを食べ(麻布は昼休みの時間に校庭で遊ぶことができるのです)、続きの試験を受けてその日は終わりました。午後も手応えは最高で、「あれ?受かっちゃった?」と思っていました。こういうことを言う生徒は大体落ちているものです。試験の後に塾に行って、2日の攻玉社の問題を解いて「おそらく大丈夫でしょう」と言われ家路につきました。

2月2日

 2日は前日に先生に言われたことを思い出しながら攻玉社を受けに行き、性格の相当ひん曲がった人が作ったと思われる国語の問題(攻玉社の国語は変な問題ばかりです。「手練手管」なんて小学生が知ってるわけないだろ)に辟易しながら受験が終わりました。もともと志望順位も低かったこともあり、ただの模擬試験のような気分でした。今思えば、この気分が勝敗を分ける境目になっているようにも思います。

 この日は午後もあった(今でこそ午後入試は当たり前ですが、当時はまだ珍しかったのです)ので都市大等々力に移動しました。昼ごはんを食べに適当な店に入ったら、周りが工事現場の人たちだらけだったのがやたらと記憶に残っています。やたらと脂っこいかき揚げ蕎麦を食べたはずです。その後は逆方向の目黒線に乗って折り返し、都市大等々力に到着しました。鉄道好きですら間違えるのですから、普通の人たちはよ〜く調べておくべきですね。偏差値的にかなり余裕があったので全く緊張することもなく、試験は順調に終わりました。終わった時に社会が満点であることを確信し、気分良く家路についたことを覚えています。この学校は当日夜に発表があって、A特待で合格していたためほぼトップで合格したことを知りました。

2月3日

 浅野を受けに行きました。とにかく坂がすごかったことと、廊下が寒かったことしか覚えていません。試験の出来も全く記憶になくて気づいたら試験が終わっていた感じでした。本当に何も記憶がなくて自分でも不思議なくらいです。

 この日の事件はここからで、帰り道に武蔵小杉からバスに乗ろうとした時に麻布の不合格を知りました。確かお父さんが見に行っていたはずですが、「自分で掲示を見に行きたい」と言った覚えがあります。あんなに手応えがあったんだから落ちているはずがない、見間違いなんじゃないかと思っていたのです。「見に行っても変わらない」となだめられつつ家に帰り着きました。そして、確かこの頃の攻玉社は翌日発表で、この前後に攻玉社の不合格を知ったはずです。つまり、この時のぼくは「(受かったと思っていた)麻布不合格+(大丈夫だと言われていた)攻玉社不合格+浅野の手応え最悪+自分の偏差値-10の学校の合格しかない」という最悪の結果を突きつけられたことになります。改めて字にしてみるとすごいですね。悪い出来事のデパートです。この日は翌日の芝に備えて勉強していたのだと思いますが、全く記憶がありません。

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ま、ぼくの受験は大変なことになっていますが田園風景でも見て癒されてください。

2月4日

 さて、運命の芝②の試験日です。どこでもそうですが、4日以降の試験は熾烈なデスマッチが繰り広げられます。芝②もご多分にもれず、間違って御三家に落ちてしまった背水の陣の受験生が集結して戦っているのです。ここまでで志望校に合格し、記念受験的に芝をチャレンジしにくる受験生もいますがほぼ相手にならず散っていきます。100点満点の試験で受験者平均と合格者平均が20点も違うということにはこういう背景があるのです。

 でも、この日の入試の何が嫌だったかというと、その難易度ではなく日比谷線に乗ることで広尾を通らなければならなかったことでした。気にしても仕方ないと思いつつ電車に揺られ(流石のぼくも電車に乗ることを楽しむ余裕はありませんでした)、神谷町に到着しました。暗い顔をした受験生がゾロゾロ歩いていくのに混じって自分も歩いていき、激励の先生と握手して校庭を横切り校舎に入りました。通路に毛筆で「受験生!深呼吸!」と書かれた紙が貼ってあったのを強烈に覚えています。さすがにこの時のぼくは緊張していた(試験で緊張したのは後にも先にもこの時だけです)のですが、席でひたすら予習シリーズを読んで気を紛らわしていました。肝心の試験はというと国語はそこそこにできましたが、算数が終わった時に不合格を確信しました。ビックリするくらいできなかったですね。ぼくが過去問を解いた時の最低点は8点でしたが、さすがにそこまでとは言わなくても「半分切ったんじゃないか?」というくらいには出来が悪かったのを覚えています。なんとか気分を立て直して理社を受けましたが、理社の感触はとても良かったです。最後の答案を出した時、「あ、これは受かったかも」という感覚がありました。麻布の時の「あれ?受かっちゃった?」というのとは違う、もっとしっとりとした感覚というか、すごく冷静に「ああ、よくできたな」という感覚でした。一橋の試験の時も同じ感覚があったので、ぼくにとってこれは合格のサインなのかもしれません。校舎の外に出た時も、帰りの電車の中でもずっと満ち足りた感覚を持っていました。

2月5日

 さて、すでに記事が3000字を超えていますが乗り掛かった船なので最後まで突っ走りましょう。実はこの日、攻玉社に出願はしていました。しかし、2日の問題を思い出して「この学校には行きたくない。その代わりに芝の合格発表を見に行きたい」と言い、自分で見にいくことに決めました。どのみちこれで中学受験は終わりなんだから、最後は自分で見届けようと思ったのです。

 当時の芝の発表は試験翌日の午前10時に講堂で行われていました。時間になると緞帳が上がり、掲示板が見えるようになるというような具合です。もちろんそれを目指して行きましたが、ぼくの昔からのクセというかなんというか、ぼくはこういうものには大体間に合わないのです。この時もしっかり家を出るのが遅れ、神谷町に着いた時点で10時を過ぎていました。前日にも通った道を歩いていくと、すれ違う受験生はみな暗い顔をしていましたが、それを見ながらぼくは「よし、これだけの人数が落ちている。自分が受かっている可能性がどんどん高まっていくな」と思っていました。この話も包み隠さず生徒にしていますが、大体「ああ、やっぱりコイツは性格終わってんな」みたいな目を向けられます。まあしょうがないですね。

 講堂に入ると緞帳は上がっていました。自分の受験番号「251」を見つけた時のことは鮮明に覚えています。周りの音が何も聞こえなくなって、遠くに見える掲示板の「251」だけがクッキリと浮かび上がって見えました。「合格者はこちら」の矢印に従って歩いて行き、校舎に入って合格証を受け取り、先生に「おめでとう」と言われた時は自分がこんなに感動することができるのか、というくらい心が動かされました。この時の気持ちは今でもはっきり覚えているし、この感覚を味わって欲しいというのはぼくがこの仕事を続ける原動力の一つだと思います。

 ほとんどの塾は「結果が出たらすぐに連絡を」と生徒に言うものですが、ぼくもそう言われていたので塾の先生に報告しようと思い、電話で担任の先生に「合格しました」と言ったところ「嘘はよくない」と言われました。なかなかすごいことを言う先生ですね。「嘘じゃないです、さっき合格証ももらいました」と言ったら一拍置いて「そうか、おめでとう」と言われました。この返事ができる境地にはまだまだ到達することができなさそうです。わざとワンクッション挟むことで「おめでとう」という言葉を際立たせるテクニック、さすが予習シリーズの著者を務めているだけあるなあと思います。

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この辺は色々変わりましたねえ。

 そんなこんなでぼくの中学受験は第二志望合格という結果で幕を閉じました。第一志望を逃した受験生は繰り上げ合格を期待するものですが、ぼくは全くそれを期待することなく芝生になることを楽しみにしていた覚えがあります。合格者説明会で「どんな経緯で芝に来たとしても、ここが君たちの母校です」と言われたのもよく覚えていますが、そこからの6年間は本当に楽しかったし、芝はまさに「母校」です。中学受験の本当の価値は高校を卒業するころになって初めてわかるものなのだと思います。